赤崁楼(赤嵌楼/せきかんろう)は台南で最も歴史の長い史跡です。
1600年代、オランダの統治時代に、オランダ人自身が台湾人から自分たちの身を守るために建てたものですが、その後修復され現在の姿になっています。
赤崁楼(赤嵌楼/せきかんろう)周辺には廟や庭園もあり、台南の一番の人気スポットになっています。
赤崁楼はオランダ人が建てた台南で一番古い史跡で、台湾の国家一級古跡として指定されています。
台南駅からバスで5分の所にある赤崁文化園区内にあります。赤崁楼停留所で下車し門を入るとまず見えるのが4人の戦士の像。台湾の英雄、鄭成功と家臣の像で「鄭成功義和団」と書かれています。
そしてこの像の左側に見えるのが赤瓦、赤レンガの建物「赤崁楼」です。赤崁楼のすぐ前には石碑を背負った亀のような石像が9つ並んでいます。赤崁楼の周りの庭園はよく手入れのされており、池には鯉がたくさん泳いでいます。
赤崁楼の建物内は展示室になっていて昔のオランダ人との衝突の様子が説明されており、また日本統治時代の最後の台南市長羽鳥又男の胸像も置かれています。
赤崁楼はオランダ人が建てたものですが、建設のいきさつには悲しい歴史が残されています。
1600年代半ば、台湾はオランダ人の統治下に置かれていました。オランダ人は台湾の農民に対して重税を課したため、台湾人は不満を募らせていました。そして1652年、農民による「郭懷一事件」が起こったのです。
この事件では、農民が当時竹で作られていたオランダ人の陣営「普羅民遮城」を攻撃しました。この反乱は、台湾人4千人が殺されるという悲惨な結果となりましたが、5日間で鎮圧されました。
オランダ人はこの事件を機に自分たちを守るために同じ敷地内にもっと頑丈な城を建てました。それが赤崁楼で、当時は「プロヴィンティア」と呼ばれていました。
赤崁楼は清朝時代に入ると地震や台風などの自然災害そして民衆の反乱などにより城の部分が被害を受け、各局城の部分は全壊してしまうのですが、残った城の基礎上に新しい建物を2つ建てました。
これが「海神廟」と「文昌閣」で、現在の赤嵌楼を形作っています。海神廟は、海の神から台南を守るために建立されたものですが、現在建物内には鄭成功の肖像画が飾られています。一方文昌閣は、教育の振興を目的に建設されました。そのため2階には、右手に筆を持った学問の神である魁星爺が祀られています。
現在文昌閣が立っているすぐ隣には、古びたレンガの土台があります。これは赤崁楼がまだオランダ人にプロヴィンティアと呼ばれていたころの城跡です。
現在残っているのは稜堡という防衛機能を持った部分で、外に向かって突き出しています。この城跡は1944年に日本人が発掘したものですが、その厚さには驚かされます。オランダ人がどれほど必死で自分たちの城を守ろうとしていたかが伺えます。
祀典台南大天后宮は、1664年に建てられた媽祖廟です。赤嵌楼とは道路を隔てた反対側の区画に歩いて3分ほどで行くことができます。名前の最初の「祀典」は「皇帝公認」の意味であり、祀典台南大天后宮は台湾で最初に政府が建造し登録された媽祖廟なのです。
祀典台南大天后宮は、建築的には中国の明の建築様式になっており、廟内に見られる木彫り、石彫り、そして色絵などはその芸術性が高く評価されています。
祀典武廟も赤嵌楼と道路を隔てた反対側の区画内にあり、祀典台南大天后宮の東側すぐのところにあります。台湾には三国志で知られる関羽を祀った関帝廟がありますが、この台南の祀典武廟はそうした関帝廟の総本山になっています。
祀典武廟は保存状態が良いため、主殿は高くしっかりとした形を保っています。興味深いのは、大門にある敷居が普通の廟よりも高くなっていることです。これは昔女人禁制の風習があり、女性に参拝をさせないために工夫されたものなのです。
呉園藝文中心は、赤嵌楼から南東に300mほど行った所にある庭園です。1829年に台南の大商人が築いた庭園を後に修復して現在のような姿になりました。清の時代の四大名園の一つです。
1911年には台南公会堂が建てられ、今では台南の芸文活動の中心地になっています。建物の周りには池が作られており、台南のビル街の真ん中にあるオアシスとして市民にも親しまれています。
住所 | 台南市民族路二段212号 |
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電話番号 | 06-299-1111 |
営業時間 | 8:00~17:30(土曜は21:30まで) |
休み | 清明節、端午節、中秋節及び春節(旧正月) |
入場料 | 50元 |
アクセス | 台南駅前から5号か99号のバスで「赤崁樓」下車すぐ |