台南にある延平郡王祠は台湾の英雄、鄭成功の霊を祀ってあるところです。
広い敷地内に作られた美しい正殿や庭園からは、台湾の人々の鄭成功への強い敬愛を感じさせられます。
延平郡王祠には手入れの行き届いた庭園が広がります。小さな池には風情のある橋が架けられ、池の中に作られた龍の噴水からは水が噴き出しています。
周りにはきれいに刈り込んだ低い垣根が植えられ、少し向こうには青々とした葉を付けた木が涼しげな木陰を作っています。
またこの庭園には迫力ある鄭成功像の姿もあります。
その庭園を横に見ながら進むと、正殿が見えてきます。広い敷地を使って作られた正殿の庭には植物はなく、そのためか、とにかくだだっ広いという印象を受けます。
正殿の建物は中国北方宮殿洋式に基づいて、細かな細工が施されています。奥には鄭成功の神像が飾られ、正殿の正面上部には「明延平王」の文字の書かれた板が掛けられています。
またすぐ近くには資料室があり、延平郡王祠の歴史資料を見ることができます。
延平郡王祠の敷地内には、2階建ての鄭成功文物館があります。
この文物館は、延平郡王祠鄭成功の生い立ちや関連の歴史的資料を展示している所です。延平郡王祠の正殿とは対照的で、西洋的な建築様式が特徴の建物です。
館内には常設の展示物も数多くありますが、期間限定の歴史の展示会も開かれます。
台湾の英雄「鄭成功」を祀ってある延平郡王祠は、1662年に亡くなった鄭成功を敬愛しその死を惜しんだ人々によって、1874年に建てられました。
その頃の建物の名前は開山王廟と言いましたが、その後日本による統治が始まると開山神社という名前に改められました。そして終戦後再度改名し現在の延平郡王祠の名前になっています。
鄭成功が台湾に渡った本当の目的は「明朝復帰」でしたが、鄭成功はその初心を果たすことなく亡くなりました。
ただ、短い期間でありながらオランダを駆逐しことで台湾独自の基盤を作ることができたため、そのことが高く評価され台湾の英雄として祀られるようになったのです。
鄭成功は1624年、長崎の平戸で中国人の父と日本人の母の間に生まれました。
鄭成功が7歳の時に一家は中国の福建省に移住します。当時の中国は明朝から清朝へ移り変わる激動の時代で、鄭成功は明朝を守るために隆武帝と共に立ち上がるのですが、清朝の勢力に押され、台湾に移り明朝復帰活動を再開しようとします。鄭成功のこの「明朝復帰運動」は近松門左衛門により人形浄瑠璃「国性爺合戦」にまとめられ日本で上演され有名になりました。
一方、台湾に渡った鄭成功が見たものはオランダの支配下に置かれた台湾でした。鄭成功はオランダ人を駆逐し台湾を鄭一家の支配下に置くことに成功します。鄭一家による支配はその後23年間続きました。
延平郡王祠は現在のこの名前になる前は、当時台湾を統治していた日本人により「開山神社」と呼ばれていました。開山神社は台湾の最初の神社だと言われています。
その当時は建物も日本式建築様式を取っていましたが、終戦後台湾を支配するようになった国民党政府により、日本式の建築様式は取り除かれ、現在のような北方宮殿様式に改築されました。
延平郡王祠から東へ500mほど行くと大南門と呼ばれる城門があります。
大南門は1700年代に作られた城門の一つで、当初は木造でしたが、後に石の城門に作り直されました。大南門は防衛機能だけでなく、攻撃機能も備えている点が他の城門とは異なっています。
台湾で廟が最も多いところだと言われています。その中の一つ孔子廟は林百貨から南東へ200mほど行った所にあります。
孔子廟は1665年に建てられた台湾で最も古い廟です。
南門の上部には「全台首学」と書かれた文字が掛けられていますが、これは孔子廟が台湾の儒教の中心地だったことを示しています。敷地内には以成書院を初め全部で15の建造物があます。また緑が多いので台南の憩いの場にもなっています。
この大南門の近くでは毎週週末になると假日花市が立ちます。蘭の花が手ごろな値段で手に入ります。
住所 | 台南市開山路152号 |
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営業時間 | 8:00-17:00 |
休み | なし ※鄭成功文物館は月曜日 |